ホームレス排除の意識構造を考える

「ホームレス」という言葉は、たんに「生活状態」を意味するだけではなく、その中には様々な差別的概念が含まれている。十分な根拠を持たない、否定的な、歪んだイメージによって意識が作られ、さらにその意識が「ホームレス」という言葉の中で、差別的思想となって増幅していく。それが彼等を被差別者集団としてカテゴリー化し、彼等が望む社会的に平等な待遇を拒否することにつながっていく。社会ではすでに「差別用語」として機能している。
その言葉は世界的に通用し、定着しているのだが、言葉によって差別が助長されているという側面を認めつつも、他に替る言葉がないために問題となる事はない。事実「ホームレス」と呼ばれるだけで、社会からは否定的イメージで捉えられ、異質なものとして、忌避・排除・いじめ・攻撃の対象となっている。
そこでは市民社会を構成する人間としても認められてはいない。さらに、社会的なあらゆる諸権利、機会が剥奪され、「社会的無権利状態」におかれる。彼らは差別的思想の集団の前では、人権を持つ人間としては扱われず、社会に害を為す無用な異物として、感情的に攻撃または排除されてゆく。
 現代社会の日常の中で蓄積される個人的・社会的な様々なストレスが、差別感情のエネルギー源となっているのではないだろうか?欲望を煽り、消費を煽る資本主義の社会構造の過程で、充足が満たされなかった結果発生したフラストレーションが、社会的弱者への憎しみや敵意に転化し、攻撃的な差別感情となってホームレスに向けられる。本来の不平不満の「スケープゴート」となって、怒りや敵意をぶつける格好なターゲットになっていく。
若者たちはストレートに差別感情に基づいた攻撃行動に出るが、大半の大人たちは自らは手を下さずに、行政を動かして自己中心的排除行動に出ることが多い。大人たちもホームレスに持っている非好意的な差別の意識に、本質的な差異はなく、より陰湿なものになっている。間接的に行われる差別行動は、個人の社会的責任や罪悪感を薄める効果があり、視野狭窄的に排除行動が正当化されていく。
ホームレスが「生きたい」・「人生を楽しみたい」・「社会に復帰したい」という人間として前向きな希望は、社会のフラストレーション発散のパワーの前では簡単に押し返され、破壊される。深い穴の中に落ちてしまった人間に例えれば、社会は梯子やロープも与えずに「上がって来い!なまけ者!乞食!」と罵声を浴びせかける。行政が投げ入れてくれる梯子やロープは少なく、一度失敗すると再挑戦の機会は失われる。穴を上りきる体力・気力のある者はわずかであり、大半は穴の中に取り残され、暗い穴の中で人生を終える。
日本という国は福祉の充実した、人権が守られている社会なのだろうか??本当に病んでいるのはホームレスではなく、社会なのではないか? 行政が行う各種の適正化政策は、国家や住民の歪んだ思想を背景にして、社会的弱者をますます暗い穴の中に追い込んでいくように思えてならない。
 弱者排除が進んだ未来社会をイメージしてみれば、そこはすでに人々が支えあう社会ではなく、自らも弱者となったときに排除されるのではないかという恐怖感、不安感に脅える毎日がある。常に勝者の側にいなければならないというプレッシャーで、心が休まることはない。気を抜けば敗者となって、自分も排除されるのではないかという意識がいつもあり、その意識が連続的な緊張を生み出して、ストレスをさらに増大させていく。そのストレス解消の「スケープゴート」として、社会的弱者が攻撃され、排除されるという悪循環が、地獄のように繰り返されていく。
 そういう安らぎのない、笑いもない、人と信じあうことも、認め合うこともない、人々が互いに手をつなぎ支えあう姿の見えない社会。他者愛のない、自己愛だけの社会。福祉と対極にある世界とは、そんな所である。あなたはそういう社会を、本当に望みますか?
今、世界で、日本で、あなた達が住む町で、そういう恐ろしい社会が作られようとしているのかもしれない。物の豊かさのカゲで、そういう事が、目に見えない所で起きている。一般国民が感じ取れないところで進んでいる。社会的弱者はその事を身をもって、痛みを伴って感じている。社会の病理は社会的弱者に、現象として表れる事が多い。したがって弱者の叫びに耳を傾けることは、社会の病を直接感じ取ることになるのではないだろうか。
 ちょっと立ち止まって、深呼吸をして、空を見上げて、優しい気持ちになって、社会の自分のまわりにいる様々な弱い人たちに、一声かけて話を聞いてみることが、世直しの第一歩になるのではないか。私は最近そういう考え方をするようになって来ている。

(路上のコラムニストX)

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