「生存権」を社会に問う

私達、路上で生活を営む者にとって、日本国憲法25条1項の「生存権」は、最低限度の「生活保障」というより、生物としての「生存保障」という、つまり命が保障される権利という意味合いの方が強い。しかしその「最低生存保障」ということでさえ守れていない現実が、最近私の身近なところで起きている。そのことに深い悲しみと怒りが胸の奥から込み上げてくる。路上で亡くなられた方の中には、直接最期に関わった人と親族の方以外には知られることもなく、マスコミからも日常的に起きていることとして、問題にもされず、報道の対象にはならない。だが「最低生存保障」さえ守ることが出来ていない社会の現実を冷静に考えてみれば、大変に恐い社会になりつつあるという認識を持つべきではないだろうか。「人間の命の保障」が出来ない。そういうことが日常的にある。それは日常的にあるから問題にならないのではなく、日常的に起きているから問題なのだと考える方がノーマルではないか。

 本来、人権とは国家が制定する法律よりも先にあり、国家はその人権を守るために存在する。その人権が踏みにじられている社会は、国家の危機ともいえる。それに気がつかない社会はアブノーマルだと私は思っている。
人権よりも、競争に勝つことを優先させた社会。人権よりも、街の美化・浄化・機能が大切にされる社会。そのような社会が、まともであるはずがない。これは社会の病理現象である。
 
 地域社会も寛容さを失い、ホームレスは単なるゴミ・異物として、人間の身体の免疫反応のように排除を始める。以前、若者たちが「社会のゴミを退治する」と言って、ホームレスを襲った事件があった。ゴミとは不要物であり、退治するとは社会に害を与えるものを殺して排除するという意味である。彼らにとっては正義の味方のつもりで「天誅」でも加えている気分なのであろう。この様な風潮は社会の病気であると断言しても、差し支えあるまい。

 この差別的/攻撃的な考えが、社会を代表するものだとまでは思わないが、かなりの人々がこの考え方に近いものを持っているのではないかと感じることが多々ある。このような考えに近い者が、救急医療従事者の中にも、ごく一部ではあるが存在している。一刻を争う状況の中で、ホームレスが患者としてそういう人に出会ってしまったら、それは死に直結する。不運では済まされない深刻なことである。
 
 国家が人権を守る能力を失ったとき、それは日本国民全体の人権が守られないことを意味する。私はこのような社会の風潮に、日本の未来に対しての恐怖や危機感を感じる。皆さんはこのことをどのように考えておられるのであろうか?ご意見を伺いたい。

(路上のコラムニストX)

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